蔵書

自分が小学生時代から買い集めた本はざっと600~500冊程度だろう。札幌に移る際に数十冊のみ送り、残りは友人に譲渡したり(押し付けるともいう)家族にあげたりしたが大半は祖母宅に放置となった。

現在は札幌の蔵書は東京から送った量の2倍近くになっている。数年後には引っ越すつもりなのだが、「引っ越しが大変だからあまり本を増やすな」という家族のありがたい教えを全く守れないでいる。家族は実際に僕の本を段ボールに詰めて運んだ経験があるので非常に説得力がある。しかし本当に自分がこれを守れるとは家族側も思ってはいまい。

 

この話題にしたのは紀田順一郎の「蔵書一代 -なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」を読んだからだ。読みかけだったが明日が返却期限のため一気に読んだ。紀田順一郎と言えば本にまつわる文章を多く発表している蔵書家、博覧強記の作家である。机の積読本の一部である「素敵な活字中毒者」というアンソロジーにも「書痴論」が入っている。「蔵書一代」はその紀田氏が三万冊にも上る蔵書を泣く泣く手放したことをきっかけに蔵書について考え体験したことが書かれている。冒頭がその蔵書を家から運び出された日の話なのだが、なかなかにインパクトがあった。本の乗ったトラックを見送った後、家に引き返そうとして不意に道路に倒れこんでしまうのだ。起き上がっても再度倒れてしまう。蔵書を失うという失意がストレートに伝わってきた。

自分の持っている本はほとんど近年の本であり稀覯本の類は全くないのだが、それでも時間とお金と労力をつぎ込み、思い出の詰まった蔵書が一気に消えたらしばらくは動けないだろう。

現在、蔵書家のほとんどは高齢者である。若者の読書人口は減少の一途であり(下げどまった感はある)、なにより蔵書を維持するためのスぺースを持つ金がない。蔵書家は減る一方であるのに対し、バブル崩壊から続く財政難により個人の蔵書を受け入れる場所がないため、ほとんどの蔵書は散逸を免れない。しかも散逸に際しても古本市場の縮小から、稀覯本以外は二束三文で買いだたかれるだろう。

本書において紀田氏は「蔵書全体を見返すと自分の歴史がはっきりとみえた」というようなことを書いている。散逸は個人の歴史の解体を想起させる。これからは無名の蔵書家だけでなく著名な蔵書も散逸を免れそうになく、失われるものを考えると悲しくなる。

 

この話に共感できるのはよほどの本好きでなければならないのは重々承知している。しかし、このままでは貴重な文化資財がどんどんスクラップになるのではないかという危機感がある。

 

 

余談:昨日の決意の通り、勉強をしようと「基本から学べる 菌類生態学」を購入。基礎固めにはよさそうである。英語は毎日読む、聴くを続けたいと思う。