仏教と洋楽

音楽を漁っていると、名盤と言われるCDが無数に存在することに気づく。まだその名盤を聴いて感激することもあるが、まったく心に響かないときもある。しかし一番多いのは「わからない」というパターンだろう。「なにを聴いたのかよくわからない」「良さがわからない」「なぜ名盤なのかわからない」…様々な「わからない」があるだろう。

一番よいのは「凄そうなのは伝わるが、何が凄いのかわからない」という状態だと思う。何やら凄そうだ、という好奇心によって何回も聴くだろう。今はわからないから時間をおいてまた聴こう、ともなるかもしれない。

この状態になるのは洋楽が多い。言葉もほとんどわからないし、聴いてきた音楽も自分たちとは全く違うのだからわからなくて当然である。なにを歌っているのかわからない、どうしてそんな音が出てきたのかわからない、でもそこにはなにか凄いものが隠されているのではないかという予感。まあ、ほとんどこの志摩さんの発言と被っていいるのだが

 

「自分の知らないものの中にこそ真実があるのではないか」という考えはこの問題の核心である。

自分はこの態度、何かに似ているのではないか、と気づいた。仏教である。自分は悟りを開いた、という謎の師匠に師事してひたすら修行する。「悟る」まで「悟り」とは何ぞや、ということは全くわからないのある。わからないが自分の求めているものなのだということだけわかる。その予感だけを信じるのである。まず師匠が本当に悟っているのかすらわからない。でも修行する。

音楽の場合は修行というほど頑張る必要はないのだが、一回聴いただけでは良さがわからない曲は確かにある。そのような曲出会ったとき、「一回でわからなかったのは自分に合わない音楽だからだ」と考えるのも一つの意見である。でも自分はいい音楽を見逃したくないのである。だから借りてきたCDは全部データを消さないし、YouTubeでそんなに好きではないバンドの曲がおすすめで出てきてもたまには聴く。好きな曲が1曲しかないアルバムを聴いていたらアルバムの曲すべてが好きになるように、きっと少しずつ「真実」に近づけると思うのだ。

自分が知らない音楽が世界にあふれていて、死ぬまでにほんの一部しか聴けないということが嬉しくてたまらない、そんな年度末

いつの間にか新年度になってたけれど。これからもよろしく自分