生まれて来なかった友人に乾杯

毎年思うのだが、誕生日ってなぜ祝われるのだろう。勿論、祝われたくないわけではない。ガンガン祝って欲しい。年に一回、なにもしなくても祝われるなんて最高ではないか。この風習の恩恵はずっと受けていたい。しかし祝う理由が”誕生日だから”なんてなんだか釈然としないのだ。

 

親が子供の誕生日を祝うのは「今日まで生きのびてくれてありがとう」だろう。親になったことないから断言はできないけれど。では、友人は?もともと他人ではないか。もしかして「君が生まれてくれなかったら出会えなかったよね、生まれてくれてありがとう」とかいう感じなのだろうか。そんなはずはないだろう。そうであるなら、生まれて来なかった友人の方がどう考えても多いだろう。僕が生まれていなくても君は誰かと友達になっているだろう。もしかしたら友人の少ない人は生まれて来れなかった友人が人より多いのかもしれない。友人に困っている人間は架空の友人の適当な誕生日で飲んだくれてもいいのではないか。潰れても助けてくれないから気を付けてね。

まあ、真面目に考えると偉い人を讃えたり機嫌を取ったりするのがそもそもの起源なのだろうなと思う。中国で最初に誕生日祝われたのは北魏の皇帝だった気がするし。それがじわじわ庶民にもひろがったのかも。それかキリスト教由来なのかな。まず暦が普及して、その記録をとる習慣がつかないと祝いようがないよね。日本は数え年だったから個人的には祝われなかっただろうし。遊牧民とかはいまでも生まれた日の記録適当らしい。wikiったらカダフィ大佐も誕生日曖昧みたい。伝聞形しか使ってないな。

まあ色々言ったけど来年も祝ってください。プレゼントは年中受け付けています。理由なんかなくても喜ぶよ。

 

 

以上、誕生日に貰ったワインがおいしいという自慢の前振りでした。