タイトルのところに写真が貼ってあったら面白いね

前回のブログから10日以上空いてしまった。ライブに行ったり、レポートをこなしたり、学園祭で散財したりとなかなか忙しかったので仕方ないね。直前のは実験なのでノーカンということで。

 

この前、友人と電話している時に、自分はいまいち”アートとして”の写真が好きになれないと言った。単に自分の趣向の問題でもあるのだが、なぜそんな感情になるのかを整理したい。

まず、有名な写真家(例えばアラーキーとか)の作品でときめいたことがない。全くなにがいいのかわからない作品ばかりのように思えてしまう。評価基準がわからないという自分の無学さが原因なのであるが。勿論、無名の写真家の作品でいいなと思ったことはあるが、見た写真の数に対して当たりはかなり少ない。

そして、自分以外の人も鑑賞対象として写真をアート、または娯楽として捉えている人は少ないように思はれる。例えば、「好きな本は何?」という質問や「〇〇って曲が好き」といった紹介はかなり一般的に感じる一方、「これが僕の一番好きな写真です」と自己紹介で言ったり「この写真最高だよな」と盛り上がったりすることはなかなかないのではないか。これだけ「写真を撮る」という行為が普遍化してきたのに、写真集を買っている人はあまりに少ないではないか(買っていてもだいたいが芸能人の写真集だ)だ。

最後に、これが最大の理由なのだが、「アート写真」と「記録写真」の区別がほとんどないところが苦手である。美しい風景写真を撮って写真集にしたり展覧会を開いたりしているが、それは写真家の作ったものではなく自然の作り出した風景を「たまたま切り取れた」ものではないのか。そうであるなら、それは「作品」ではなく、こういう景色が存在したという「記録」に過ぎないのではないか。裁判記録がアートとなりえていないように、「記録写真」も「アート」のような顔をしているのにはどうにも違和感があるのである。

 

しかし、ここまで考えたところである疑問が生まれた。なぜ文学や音楽、演劇は記録でないと断言できるのか。風景ではなく、作者の心象、時代、激情を記録したものとも言えるのではないか。そして風景と心象は現実に存在するかどうかで分けてしまってよいのではないか。風景は目に入り脳で認識した瞬間から心象と不可分になるのではないのだろうか。また、同一作品でも人によって「記録」か「アート」かの認識は異なるだろう(例えば、友人の思い出の写真は他人にとっては「記録」であるが自分にとって「

アート」と呼ぶべきものが何枚かある)。

「記録」と「アート」は区別される、という認識(あるいは思い込み)が自分にはある。さりとて考え付いてしまった疑問にも答えられない。そもそもアートとは何かについて断言できる答えを持たない青二才なので結論が出ないことには寛大になっていただきたい。

 

 

最後になったが、さらば10代。永遠に

 

 

 

p.s.写真すべてが嫌いなわけではないし、好きな作品はいくつもある。これはヘイトスピーチではない。