適性なし

Twitterに向いていない人間というのは様々存在しその種類分けも多種多様であるが、最も向いていないのは憂鬱が飯と睡眠もしくは運動で解決されると信じて疑わぬ人間ではないかと思う。僕の苦手とする三島的発想である。憂鬱というものは人間から食欲も眠りも遠ざけるものであり、無理やり喉から栄養を押し込んだからといって霧散する代物ではない。そんなものであると信じていたならば、その憂鬱は実に安物である。身体的快楽はすべからく逃避であり、憂鬱本体とは関わりのないものなのだ。

 

Twitterには日常言語とも文学言語とも異なるTwitter言語とも呼ぶべき言葉があふれており、字数制限及び心理的負担から抽象的であることを特徴とする。その抽象性はぼんやりとした憂鬱を抱える人間には非常に安心を感じさせる。日常言語では生活の現実を表すことにほとんどを割かれるし、文学言語では明確にしなければならないことが多すぎるため憂鬱の特性とは相性が難しい。何より、他人の概念との接触がこれ程簡単な方法はあまりないだろう。

 

僕の生きている時間で他人の概念を少しでも理解できればよいのにと思う。ただ、僕のように思う人間は少ないように見受けられる。このブログは僕の概念の皮層だが、そもそも僕に興味のある人間の近似値は0だ。分からないやつは分からないまま死んでしまえ、と思うこともある。そう思った瞬間に僕は他人のことが1つも分からないまま死んでいくのだということに、どうしようもなく気がついてしまう。そんなことを帰り道の脳内で導き出した。住宅街の公園に捨てられた空き缶はコーヒーでもなくコーラでもなくストロングゼロの冷たく光る銀色だった。

 

今回は漢字が多いので短くしないと読まれぬだろうとの推測からここで終わりにする。読まれていない現実をふやかすために。

 

 

 

 

 

p.s.このブログの二次公開(僕の把握していないリンク共有)は勘弁してください。

 

 

p.s.2 あけましておめでとうございます。何がめでたい?