僕らタイムフライヤー時を駆け上がるポエマー

詩、というものに抵抗がある。恐らく、日本人のほとんどがそうだ。詩が好きな人間は、きっと自分が思うよりずっと少数だ。LINEの一言にに好きな言葉を載せているとポエマーだなんて冷笑されるのが自分にとっての世間だもの。

 

その抵抗は「誰にでも使える手段を使っている」ところにあると思う。義務教育を受けた人間は必ず、母国語の読み書きを叩き込まれる。何年もだ。デッサンができなかったり音痴だったりしても生活に支障はでないが、読み書きは毎日の生活で必要なスキルだ。

 

その誰もが持つスキルで、誰もしていないことをしなければならないのが詩だ。定型詩なら慣れの問題もあるし、漢詩ならば韻を踏むのも難しい。ただ自由詩となるとスキル的には障壁はないように思われる。詩を発表するのは、あたかも「自分の歩き方、素敵でしょう?」と大衆の前で堂々と歩くのにも等しい。両足で歩ける人間は圧倒的マジョリティであるし、歩き方のオリジナリティは担保が難しい。

 

オリジナリティだけではなく、その詩で心を動かさなければならない。詩集を読んでも、イマイチ心に来ないことなんてよくある。それっぽい言葉を使っているだけなのではないかとも思えてくる。必要な言葉を知らなくて、間の文章をただ省いてしまったようなものも詩として扱われることがある。詩がアートになる瞬間、というものが自分はまだわからない。

 

ただ、詩をよくわかっていない自分でも、詩は消えないであろうというのは何となく感じられる。大江健三郎は小説が塹壕に読む捨てられても詩集は死ぬ瞬間まで臓器として体に刻まれる、のようなことを書いていた気がするがそれはなかなか的を射ているように思う。詩は人間性を言語で結晶化させたものであろう。その結晶化が難しいからこそ詩人の価値があるのだ。

 

ただ、詩に対する日本人のアレルギーというのはまた別種のもの、つまり歌を詠んだり漢詩の知識があるのは貴族階級であった歴史に由来するのだと思う。日本人、特に我々のような平民は過剰に特権階級を嫌うものだ。自分の特権階級になる資質のなさから目を逸らすかのように。

 

書いていて、自分がなぜ所謂「文系」の人間が苦手なのかなんとなく理解出来たのだが、それはまた別の回で。