幻というタイトルだからといって自分の幻覚や幻聴についての話ではなく、もちろんKEYTALKのMABOROSHI SUMMERやセカオワの幻の命の話でもないし、見えているものすべて幻ではないのかという哲学の話題でもない(それはそれで面白いかもしれないが)。下の動画と僕の中にいる女の子の話である。

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この動画を公開されてから定期的に観ている。崇拝している教祖のような存在の二人(二人とも熱烈なファンが多いし自分もその端くれである)がコラボして高校時代のアンセム曲を歌っているのだから何回も見るのは当然の流れである。この対バンが決まった時絶対に行こうと思ったのだが、不幸が重なり行けなかったのがいまだに残念である(後輩が参戦していてとっても羨ましかった)。DVD出て欲しい。少しくらい高くても買うのでお願いします。

 

この曲には女性パートがあり、原曲(アルバム「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」に収録されている)ではyukiが歌っている。その歌詞は

 

私は幻なの  あなたの夢の中にいるの

ふれれば消えてしまうの

それでも私を 抱きしめてほしいの  強く

 

というものだ。今回の映像ではこのパートを客席から出てきた大森靖子が歌っている。しかしその部分が公開後話題になった。「私は幻なの」という歌詞にも関わらず大森靖子は力強く歌ったのだ。そこに対して解釈が違うと反発が出たのだ。そこはyukiだけのところだとか、幻の可憐な少女みたいにしてほしかっただとか、せめて音程取れだとかいろいろあった。

でも、当のyukiはそのパートは「私は幻なんかじゃない」とコメントしているし、銀杏BOYZyukiの対バンの時そのパートは歌わなかったらしい(その後、この部分は客席が歌うようになった)。だから単にファンの好みの差の話でしかない。

むしろ、自分は客席から大森靖子が現れて歌い出した瞬間、ぐっときてしまった。幻が実体となった瞬間をみた気がした。歌詞の女の子が峯田の心の中、妄想から解放されて独り立ちした瞬間だった。yukiの私は幻ではないという発言とも重なっている(大森靖子yukiの大ファンである)。また、客席から現れてステージの峯田の横で一緒に歌い、次の曲にそのまま移る流れも大森靖子のヒストリーをたどっているようで胸アツだった。

 

そういば、峯田は自分の中にいる女の子に向かって曲を、歌詞を書いていると話していた(確かくるり岸田との対談でだ)。この駆け抜けて性春はそれが一番現れている曲ではないかと思う。その記事を読んでから、自分の中に女の子が住むようになった。いや、前からいたのだが姿がはっきりした、というほうが正しい。勘違いされそうだが、それは自分としての女の子ではなく完全な他者としてである。だからその女の子が何を考えているかわからない。いつもぼんやりとした光に照らされていて体育座りでうつむいていて痩せていて不健康なほど色白で髪は黒髪ロングなのだ。顔をはっきりみたことはないけれど絶対にきれいで、きっと細い声で歌うのだ。すごく気分屋で僕が失ったものなんかみんな持っていて背中はいつも悲しそうだ。そんな女の子が僕の中に住んでいて、駆け抜けて性春のyukiパートはそのこがつぶやくように歌う歌だった。自分が詩を書く時もそのこに見せられるかが基準だった。きっとその女の子が僕から出て行ったときが思春期の終焉なのだろう。もうしばらく長居していってほしいが、高校卒業後から会う頻度がめっきり減った。

誤解されそうだが、この女の子は自分の女性のタイプではない。松本零士メーテルと名付けた存在や夢二が描き続けた女性もそれぞれの中に住んでいたこの女の子なのではないだろうか。

 

女性の心の中には同様の男の子は住んでいるのだろうか?それとも……?