山葡萄

夏休みに帰った時、「ブログの記事ってどんな時に書いてるんだ」と聞かれた。酒を飲んで書いているのだと相手は思っていたらしい。普段は全く素面で書いている。今日だけは少しアルコールが入っているが。

 

記事が面白くないのは酒のせいではない。僕が面白くないのである。全く、ろくな文章というものが全く書けなくてイライラしている。文章が書けない時には「書けない」という話を書くのが常套句なのだが、それも過去の記事で使い果たした。最近の記事を読み返したら、〜をしたという話ばかりだった。現実だけの描写で内面を描こうとしていると言えば聞こえはいいが、ただ内面のことが書けなかっただけだ。僕が価値があると美しいと思う思想や内面を現実にする能力が、僕には全くないのである。この駄文を面白いと言ってくれる人間には非常に感謝していると同時に、非常に申し訳なくもある。僕を評価してくれる人間だけでも、美しいものを見せたいと思うのだ。思ってばかりなのだが。

 

こうなっているのは全て「自分が面白くなるための時間」が欠けていたからだろう。僕は伸ばせるはずの技能を伸ばさなかった。僕が面白いと思う時間は必ずしも僕を面白くはしない。例えば思想、例えば話し方、例えば知識、詰め込まれるはずのものは詰め込まれずに終わった。掬えるはずの発想は掬えずに消えた。腹いせに山葡萄ワインを煽った。

 

わざわざアクセスしてくれた人間に愚痴を投げつけている現状ほどみっともないものもない。みっともないと思いつつ書くのは、自傷の1つだ。酔っ払うのも1つの自傷だが、今夜は失敗に終わった。あまり悪酔いする体質ではないので、酒は1番体裁的に安全な自傷なのだが。

 

死にたいと思うよりも、生きていたくないという気分になる。僕が幸せであること、これは僕が生きたいと思うことに何も関係がない。幸せは生きること前提の価値観だからだ。友人に殺して欲しいと思うことも少なくなった。友人は皆遠くなったからだ。その位置では僕を刺せない。僕は死ぬタイミングを逃したし、きっとこの先は体が透明になるまで生き続けるだろう。

 

生きていてよかったというくらい興奮できるのは、自分の中から何か取り出せた時だ。それが形になると実に嬉しい。それが駄曲であれ駄文であれ。透明になる前に、取り出せるだけ出したいと思う。透き通り始めた指先を動かしながら、本当にそう思う。