紀伊国屋に行ったら「お客様の声」みたいな投書のコーナーで意見書を前になにかキレているおじさんがいた。自分が隣のベンチで月間化したTVBrosを広げている間一人でずっと何かの文句を言っていたのだ。何分か経ったのち、おじさんはしわくちゃになった意見書を5枚ほどポストにねじ込んで帰っていった。果たしておじさんの気は済んだのだろうか。ああいう意見書って一人で何枚も出すものではないと思うけど。

今日はいなかったが、紀伊国屋の駅に近いほうの入り口前には創価学会の批判をしているおじさんがよくいる。北19条らへんに創価学会の建物があった気もするので札幌には会員の人が多いのかもしれない。しかし一人で街角に立って誰も聴いていない空間に怒り続けるのはどれほどのモチベーションをもってすればできるのだろうか。バンドマンは客が数人しかいないと心が折れてしまうのに。バンドマンは非常にか弱いメンタルの持ち主がマジョリティなので仕方ないのだが。創価学会の体制よりバンドマンを叱るべきなのかもしれないぞ、おじさん。

怒るには体力が必要である。体調が非常によい時にしか怒れないし、怒ったあとはぐったりしてしまう。自分は寛容というよりも怒る気力があまりないのだ。そもそも「自分が絶対に正しい」と思った時にしか怒らなかったので、経験値が溜まってゆくたびに怒りにくくなるのかもしれない。

怒りのピークはいつだったのだろう。おそらく中学の時だ。理不尽なことが多い環境と怒る元気のある時期がしっかり被っていた。今でもあの時自分が怒っていたのは正しかったと思う。高校ではそういった理不尽さは激減したので今何かに怒っている中学生は頑張ってほしい(誰目線だ)。あの時の自分を若かったなんて言ったら過去の自分を殺すことになってしまう。まだ殺したくない。まだ自分は過去をないがしろにはできない。高校ではあまり怒ってないと考えていたが、ちゃんと怒るときは怒っていた。正しかったのかはわからないけれど。今ではこの前怒ったのはいつだったか思い出せない生活をしている。

 

「怒り」と「石狩」で韻踏めることに気づいたのが収穫。おやすみBGMには早い時間帯に書くのは久しぶりだ。「恋と退屈」を昨日見返したから始めたのだけど。