知識なんていらなかったのか

ちまたで教育論や受験問題に関する話題になると、「つめこみ教育反対!」「暗記重視型から思考力重視の教育に!」などという文言が必ず踊る。必ず、だ。実際に数年後にはセンター試験が終わり、筆記も含む新試験にかわる。

 

つめこみ教育に反対する人の根拠として「社会で役にたたない」「いつでも調べられるようになり、覚える必要がなくなった」「日本の若者は考える力が弱い」の三つが主にある(完全に主観で選んだ)。自分はいわゆる「つめこみ教育」に肯定的な人間であるので、以下これらの根拠に反論していきたい。

そのまえに、ここで想定する「つめこみ教育」について整理しておこう。ここでは「理系にとっての古文」といった専門以外の学問も学ばせる教育制度、あるいは歴史上の人物名といった暗記が必要な単語が多い教育内容、を指すことにする。狭い教室に生徒をぎゅうぎゅうにつめこんで授業することではない(そんな授業は少子化で滅びることを願う)。

まず、「社会で役に立たない」という意見だ。成績のよくないガキが「三角関数なんてなんの役にたつんだよ!」というあれである。これには反論方法がふたつある。「学校は具体的な仕事の内容を教える場ではない」という意見と「役に立っていることに気づいていないだけ」という意見である。「社会で役に立たない」という場合の「社会」は十中八九「学校卒業後、働くようになった場面」という意味合いである。そして専門学校は除いて一般の学校は「職業訓練所」ではない。生活のため、生活を豊かにするための基礎をつくる場である。そして基礎は緻密なほうがよい。体にしみ込んだ知識は「覚えている」とは意識しないものである。それは必要になった時にふっと出てくるものなのだ。ゆえに「役に立っている」という意識は得にくい性質のものが大半なのである。

次に、「いつでも調べられるようになり、覚える必要がなくなった」という意見である。たしかにスマホやPCが普及しインターネット上に情報が氾濫している現代、検索をかければだいたいのことは一瞬で調べることができる。しかし、それは自分の中に知識を蓄えなくてもよいという根拠にはならない。新しいアイデアは「Aのこの要素とBのあの要素を組み合わせれば新しいものができるのでは」というふうに着想される(、と自分は考えている)。また、「AとBはこの点で見れば同じじゃないか」とものの見方を深めることがある。これらはA,Bと抽象的に表した知識が多ければ多いほど起こりやすいと考えられる。つめこみ教育では多くの知識に触れることになるので、どちらが優位か明らかであろう。

ここで注意しておきたいのは、自分は「一言一句完全に覚えること」にはあまり価値を見出していない、ということだ。自分がつめこみ教育に価値を見出している点は「膨大な知識に触れ、それを覚えようと格闘すること」にある。一度みたことのある知識とない知識では、将来出合ったときに得られるものが何倍も違うと考えるからだ。

最後に、「日本の若者は考える力が弱い」である。知識偏重だから思考力が育たないのだ、という理論である。ちょっと待って欲しい。思考力が育っていないのは思考力を育てる教育をしてこなかったからだ。そしてその「思考力を育てる教育」は「つめこみ教育」と相反する存在ではない。相反してしまうのであればそれは教師の技量の問題である(実体験としての低レベルな教師の話はここでは割愛する)。思考力を育てることのできない教師の質の是正という話題になるべきである。思考の材料となる知識を教科書から削ってはマイナスの効果しか産まないのではないのだろうか。

 

教育は実験ができない。人の一生を左右するからである。個体差が大きく、統計的なことも調べにくい。だからこそ、もっと教育について考えねばならないのではないか(打つのが面倒で割愛したトピックがわんさかある)。しかし、久しぶりに中学の作文のような内容とまじめさの文章を書いてしまった。早く寝るに限る。