一目惚れされる怖さへの論考

友人が、君の大好きな友人が、「自殺したい」と君に伝えたとして君はそれを止められるだろうか?僕はまだその言葉を持っていない。その言葉を持っていないというのは自分が自殺しない確実な理由もないということで、今のところ僕が生きているのは死に方を決めきれていないからで、決めてしまったら思いとどまれるかはよく分からない。20年生きてきて本気で自死を考えたことの無い人間がいるなんて信じられないけれど、自分は人よりも考えている時間が長いように思われる。

 

僕が唯一説得できる可能性を見出したのは「僕は君に生きていて欲しいから死なないでくれ」だ。これしかない。完全に頼み事なので断られたらそれまで。僕のために生きろ、と言っているようなものでエゴしかない。でも自分はエゴだらけの人間なので気にしない。エコではないことは確かだ。

 

「生きていればいいことや楽しいことあるよ」なんて最低だ。それは確かに生きていれば楽しいことはあるし、ただ当然それくらい死ぬ前に考慮しているだろう。考慮した上で今後の楽しみの総量よりも自死を選択しているのである。僕だって人生の憂鬱と幸せの大きさはどちらが勝つのかまだ知らない。

 

楽しいこと、といえば人と会うことと趣味だ。ただ一年ほど前から趣味について懐疑的になってしまった。僕の趣味は読書と音楽で、趣味欄に書いてあったらまず誰も興味を持たないものだが、本当に趣味と言えるのがそれくらいなのだから仕方ない。かれこれ10年以上趣味は続いていて、これのお陰で救われて今まで生き延びてきたと思っている。しかし、果たして音楽と本は僕を救ったのだろうか。大好きと言える趣味を持っていても何年も続く憂鬱は未だに消えない。音楽と読書はただの鎮痛剤で、大元の原因は治せないのではないか?僕の人生は僕の趣味では救われないのではないか?疑っていても答えは出ない。

 

人にも、大分救われている。恋人友人に救われたのは言わずもがな、たいして仲良くない知り合いに僕が勝手に救われていたこともある。中学時代の女友達とかね。僕は女性信仰の多神教徒なので、ある意味では信仰に救われたのかもしれない。僕が友人として接している人でも特別視している人もいるし、話したことないのに信仰している女性もいる。気持ち悪いので本人には伝えたことが無いけれど。一目惚れされたことはないが(少なくとも一目惚れしたという情報は受け取ったことがない)、もしされたら意味が分からなすぎて強烈な恐怖を覚えるだろう。そこに論理はないからね。信仰されているなんてそれ以上で、自意識過剰な僕は異性を褒めるのがひどく苦手だ。

 

楽しかった日々のことを考えると神経を焼き切りたくなる。僕が僕の知らないところで、誰かの特別になっていますように。そんな祈りを捧げてから意識を消す。もう今夜は消識時間だ。もらい鬱になってしまったら僕に被害届を出して下さい。