距離感

自分の書く文章がどうにも下手で耐えられないので上手い人の特徴を考えてみたところ、それは文章と読者の距離感にあるように思われる。この距離感が近すぎたり遠すぎたりすると全く興味を持てない文章になる。人間には所謂パーソナルスペースがあり、それは人によってまちまちであるので好きな文章も変わってくるという訳である。

 

僕の文章で言えば、今年に入って書いた記事は全て距離が近すぎる。読者の脳内に直接感情を流し込もうとして書いているので0距離である。対して、初期の頃のテーマ(主張)をはっきりさせて書いた記事は距離が遠い。他人事のように感じてしまう。教室前方でのスピーチを座って聞いている感覚で、約8mはあるのではないか。一般に、論理的に書こうとするほど距離は遠くなる。論文などは距離がかなり遠いから、読むこちらも筆者に惑わされず思考できる。僕は読者を惑わせたいので、少し論理を飛ばすくらいが良い。

 

理想としてはテーブルマジックをするくらいの距離から始めて次第に抱きつくくらいまで近寄り、最後にふっと1歩下がるような文章を書きたい(例えが気持ち悪いのは許してください)。自分の記事で気に入っているのは「拝啓」「青を教えて」あたりだが(「拝啓」を読んで興味を持てなかったら僕と趣向が合わないと思われる)、あれくらいをコンスタントに書けなければ意味が無い。

 

この距離を測るのが下手なのは、人に文章を見せる機会があまりなかった所に原因があると思う。小中学校では勿論作文を書かされたが、書き方も教えられていないのに書きたくもないテーマについて書かされた上、一方的に添削されたのだから嫌いであった。そんな気分で書いた作文は当然のように面白くなくて人に見せるなんて考えられなかった。自分の文章と比べて図書館で借りてくる本はあまりに面白かったので、自分が書く意味は無いように思われた。

 

このブログを書いているのは高三くらいから何度か文章を褒められたからで、以前と比べれば多少は書きたい文章を書けるようになってきた。願わくば大学に入るまでにもっと書きたかった。少し前の作家などはクラスでの回覧雑誌を作ってそこに書いていた人が多い。だから同人誌を作るのには憧れがある。今日読んだ鶴見俊輔の文章には「五年生の時に、ぼくたちは、級の中で、三種類から四種類の回覧雑誌を発行した」とあるし、太宰もたしか中学時代に同人誌を出して書いている。現代なら文芸部に入れば良かったのだが、羞恥心と自尊心が許さなかった。読んだ相手のリアクションがすぐわかる環境は中々貴重なのだと最近思う。

 

久しぶりに、まとまったものを書けた。まだ憂鬱は完治せず、根本理由も解決される見込みはない。そろそろ、何年も書きたかった恋愛についての文章を書きたいのだが中々まとまらない。前編だけ構想は出来つつあるので努力したい。書いているうちに吹雪が止んだので、米を買いに出ねば。