ぼんやり

4月は読書と新歓で忙しくて、キャパシティの小さい僕は液晶端末を見る時間を減らした。自分が何をしている時が1番機嫌がいいかなんて、もうとっくに知っているけれど、いつでも最高だと壊れてしまうし、その状態になるまでのウォームアップも必要だから必然的にしょうもない時間を消すことは出来ない。それに「機嫌がいい」「楽しい」「気持ちいい」「ハイ」も全部別種の正の感情で、それぞれそうなるための方法も違うことが分かってきた。例えば、機嫌がいいのは自発的だけど気持ちいいのは受動的。

 

昔読んだシリーズを読み返している。自然と、今までのことを考える。自分のことを考えるほど、自分は考えていたよりもつまらない人間なのではないかと思うようになる。色々考えたつもりでも表面の部分で止まってしまう。もっと潜ろうとすると何かが邪魔をする。ぼんやりと、表面を漂うことしか出来なくなっている。

 

他人への興味も、ここ1ヶ月非常に薄くなっていた。今まで、その人に抱いていた一方的な期待や幻想がもう見えなくなっていた。僕の過剰な思想によって地位付けされていた友人たちは、それがなくなると姿がぼんやりしてしまって、友人同士の関係もフラットになっていて、でも僕が喋るモチベーションはまさにその幻想だったからとても困った(いやそれは嘘で困っていないし、元々距離が遠いから僕が無口になっても気づく人はいないのである)。

 

最近、「ぼんやり」というワードばかり考えている。数年前までは、世界はもう少し鮮明でやりたいことも知人への思いも全部具体的だった。大人になるにつれて幸せもやりたいことも情熱もすべてぼんやりして混ざりあってしまった。年月がナーバスな部分を切り落とし続けるのなら、僕は川を下る石ころと同値なのではないだろうか。せめて文章くらいはぼんやりさせたくなかったのに。

 

現実はアナログで記憶はデジタルだけれど、脳みその処理速度に問題があるのかもしれない。思想世界はアナログであると夢見ていたい。