僕らに心はあったのか

5月下旬の札幌は暑かったり冷え込んだりと落ち着きがなく、それに伴って僕の体調も不調である。来週には学祭、さらに1週間空けて臨海実習が待ち受けているので体調を崩しているタイミングがない。

 

閑話休題

普段、生物学を勉強しているわけだが(未だに僕が文学部だと思ってる人もいる)生物学というのは割とルーズというか穴だらけの学問で、そこが魅力であったりするのだけど、教科書を読んでモヤモヤすることも多い(教科書に書いていないことは大抵分かっていないことだ)。

 

生物学の中にもナントカ生物学というのが乱立している。そのうちの行動生態学という分野の勉強をしていた時のこと。動物の行動は全て「生存に有利かどうか」で決定される。メスにモテやすかったり、敵に見つかりにくかったり………利他行動もそのうちの1つだ。利他行動とは読んで字のごとく、自分ではない個体の利益になることをわざわざすること。

 

教科書的に書くと「この場合、利他行動を取らせる遺伝子が残りやすい」となる。しかし待って欲しい。人間の利他行動はたいてい「思いやり」だのなんだのと、精神的なものの現れとして説明される。一方の動物では全て遺伝子で説明される。なぜ?

 

人間の性格や能力を遺伝子と結びつけると優生学だと非難されるからそうしないのだろうけど、それだけではないように思う。恐らく、その裏には「心や思いやりは人間だけにある」という信仰があるのではないか。人間の心というものをブラックボックスにしておきたいだけ、自分の行動は「心」によって決まっていると信じていたいだけではないのだろうか。

 

サイエンスでは「動物の心」をあまり問題にしない。「心」の定義が決まってないからだ。では、人間に心があるという確証は?

 

もし動物が人間のように思考していたとしても、まさか利他行動をした時に「ああ、これで生存に有利に………」などとは考えないだろう。恐らく、脳内で快楽物質が分泌されて「いいことをした」としか考えないのではないか。

 

僕らの行動は心なしでも説明できるのではないか、だとしたら僕らに心なんてなかったのではないか、というのが最近考えていること。数百年前に神は死んだが、次に死ぬのは心かもしれない。