不都合な現実

「天気の子」という映画を観てきた。大学生になってから映画館で映画を観るのは2回目で(ライブ映像を観に行ったことが1度ある)、映画館は体力を使うから避けていた節がある。彼女に引っ張られて観に行った次第である。以下、天気の子のネタバレを含む(というか大部分がネタバレ)なので観てない人間はここで読むのをやめて欲しい。映画というのは、「あ〜この次こうなるんでしょハイハイ」的なテンションで観ても面白くない娯楽だと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これだけ空ければ未視聴勢はスクロールしない限り読めないだろう。スクロールした人間は馬鹿なので気にしない。

 

端的に言えば、観ていて辛かった。何度も退出しようかと思ったし、左腕に爪をくい込ませて我慢していた。半袖だったので、いつも彼女が自分の右側に立つのをありがたく思った。この記事は、どうして辛かったのかを考える記事になると思う。

 

まず、設定が厳しい。主人公は16歳で家出をして、東京で職を探す………いや無理だろ。身分証なしはさすがに厳しいし、明らかに未成年だ。しかも、風俗店のボーイならいけると思ってヤクザに怒鳴られながらもバイトを探した主人公がなぜ須田の事務所に雇われそうになったら全力で断ろうとしているのか。また、未成年の姉弟が普通に生活出来ているのも謎だ。恐らく、主人公の男女が家族に邪魔されることなく行動するための設定だったのだと思うが、強引に思われる。強引な設定を、納得させるような描写は薄いように感じた。

 

最初の設定から、この生活が長続きしないことは明らかだ。それでも、制作陣は思春期の男女の感情の迸りを描くために、その後の人生などお構い無しに、一瞬の青春を描くためだけに無理な設定をしたのだ。人生の山場を、勝手に作って満足しているようにみえる。

 

そして、これらの設定も含めて、作中で何より目についたのが「不都合なことは描かない」という態度だ。それが端的に現れたのが、警察に逮捕後のことを飛ばして3年後から物語を再開させたことだろう。騒動後が1番現実では辛くて面白くない部分で、さらに3年も雨が降り続いたら東京はもっと無茶苦茶に変化しているだろう。しかし、あたかも何事もなかったかのようにしれっと物語は再開する。どう考えても破綻している流れに、制作陣が気づかないはずがないのだが。作った物語には責任を持たねばならない、と僕は思う。

 

あとはスポンサーついた企業わかりやす過ぎるだろとか、あの伏線とか設定いらんだろとか、勅使河原とゆきちゃん先生どこいたんだとか、死んだ母親とアクセサリー被ってる伏線どこに行ったんだとか、色々あるけど疲れたのでこのくらいに。3年後、になってからは面白かった。そこのちょっと前のパートまでは映画の世界に入れなくてずっと苦しかった。映画は入り込むまでにエネルギーを使う。

 

最後のセリフは良かった。秒速のアンサーみたいな気は、少しした。