旧友

今、ちょうど久しぶりにほのりとした憂鬱が心にやってきた。この文章を打ち込む「点」としての今から5分以内の過去に、急にやってきた。僕はレポートを書くためにPCを広げてぼんやりしていたから、すぐにこれを打ち込むことができている。憂鬱と不安の中間のような、舌の奥が少し痺れて、心臓に誰か抱き着いているような緩やかな圧迫感。ダウナーな気分がやってきたのに、少しハイになっている。恥ずかしいことだ。

 

これは街を歩いていて、ただ目的もなく歩いていて、古本屋には心躍る本が見つからない日で、じわじわと疲れてきているのを自覚しつつある時に、ばったりと、昔心を許した旧友に出くわして、ひとしきり適切でない会話をしたのちに、たまたまそいつも時間があることがわかって、会話の流れからさっきまで考えてもいなかったかき氷を食べに行くことにして、5分10分歩いてまだ涼しくないかなどと言いつつも、かき氷が運ばれてきたら口をそろえて美味いだのと言うあの瞬間ににている。なにを言っているかわからないかもしれない。君にはわからない感情なのだ、ということが本質なのだ。なにを言っているかハッキリとわかるかもしれない。ものわかりのいい人間しかこのブログにはアクセスしない。

 

かき氷は少しこぼしてしまうのだ。それを、ああもったいないな、という気持ちの手前くらいの感情でながめつつ、それが結露で生まれた透明と混じりあっていくのをみて、終盤に器に手を添える時にべたつくのを想像して、心の眉を顰めるのだ。かき氷が半分以上減ると、もう、こんな出来事は来年の夏まで期待できないのだな、いや冬にもあって欲しいな、などの感情がうごめき始める。隣の友人は食べるのが遅いから、その感情も溶けて流れてしまっただろう。それが容器とお盆の間に溜まっていくのを、僕は流し目でしばし見つめているだろう。終盤、友人の手には少量の透明がついているだろう。人の手が撥水性なら、もっと美しい生命になれただろう。

 

話が脱線した。君はもともと走っていたはずのレールが見えただろうか?