ピンクの象

*この文章はいつもよりフィクションです。

 

「ピンクの象って知ってますか?」これが高校の後輩などから発せられていれば学園もののアニメ第一話のようであるが、目の前に座っているのはカウンセラーのおばさまである。大学のメインストリートは新緑に包まれており、初夏の日差しに照らされて人々が行き交うのが見える2階の部屋に我々はいた。数少ない素敵な陽気の日に、なぜアクリル板を挟んでおばさまと2人きり、個室で向き合っているかといえば、先月の自分が発狂しかけてカウンセリングに駆け込んだことが原因である。カウンセリングは毒にも薬にもならなかったが、やめる理由も特別見当たらず、こうして人生の浪費に貢献していただくようになったわけだ。今日はここ一ヶ月の中では比較的気分がよいのだが、礼儀として私も深刻な表情をつくり、前回と変わらぬような相談を投げかけていた。実際、研究室にいるよりも居場所のように感ずる瞬間もある。

 

会話のテンポが悪くなり、おばさまが怪訝な顔になっていくのに気づく。「単語だけなら聞いたことあるような気もしますが、わからないです」プラスチックバットでやる野球くらい適当な返答だったが、おばさまは我が意を得たりというように頷いた。「そうね、これはマインドフルネスの方法なのだけど………」そういえばマインドフルネスの話をしていたのだった。その概念をビジネス本などのしゃらくさい本でしか知らなかったので、その話題になってから発話が適当になっていた。おばさまの話を要約すれば、マインドフルネスとはひたすら呼吸にのみ意識を向けることで無駄な不安が排除され、”今”と向き合えるようになるとのことであった。つまり話を聞く限りでは、瞑想の方法論を雑に抜き出して名前を横文字にした、まったく興味を持てない話であった。

 

「今から30秒、ピンクの象のことを全く考えないで、と言われても難しいでしょう?たいていの人には難しいのよ。でも呼吸にひたすら意識を向けて、なにも考えないってことに集中すれば、ピンクの象も頭から消せるの。これが出来れば、考えなくてもいい不安に襲われた時にやることで無駄な悩みは減ると思わない?興味はなくとも、まあ試しにやってもいいかって気になった?」ここまで勧められて断るメリットは何も無い。襲い来る不安を無駄、と考えたことなどないのだが、ピンク畜生を消せるならやってみてもよいだろう。さっきから5cmくらいの、ファンシーな消しゴムのような象が2匹、おでこのあたりを漂っていて、まったく気が引き締まらないのだ。

 

「じゃあやってみましょうか。口から吸って鼻から吐いて……空気の流れに集中して……ではスタート」目の開閉は問わないらしいが、視覚があると雰囲気が出ないので目を閉じる。マインド、という単語のつく行為ではまず目を閉じると雰囲気が出てきてよい。薄く開いた口から空気が肺へ向かうのが、舌の感覚でわかる。感覚は肺の入口あたりで消えるので、空気が肺のどのあたりまで進軍出来ているかはわからない。そして空気達を早々に鼻から退出させる。鼻の穴は意識してみるとずいぶん長く感じる。出ていった空気を追いかけて、じわじわ鼻が伸びている感覚に陥る。絶滅した象の先祖は、このくらいの、まったく中途半端な長さの間抜けな鼻だった。私の感覚では、その長さまでしか空気を感じとれない。現在の象はマインドフルネスにさぞ集中しやすいだろう。ただ気になるのは、鼻にピーナッツが詰まってしまうことがないのだろうか。あの長さだと、何か詰まってしまったらたいへんに不快だろう。

 

目を瞑っても瞼にチラついていたピンク色がみるみる拡張して、リアルの質感を伴ってきた。近くで見るとおでこに生えた毛は白色だし、鼻の根元付近はシミのように色が薄くなっている。そういえば花子が死んだのはいつだっただろう。井の頭公園のアイドルだった花子、侵入者を殺した花子、他の象よりも顔のシワが多いように見えた花子。でも花子はピンク色ではなかった。このピンクの象は名前が必要だろうか。でもピンクの象がこの個体しかいないなら識別するための名前は必要ないのではな

 

 

「ハイ、おしまい。どうでしたか?」「さっきまでよりは、ピンクの象のことを考えなかった気がします」「そう、それはよかった」