散骨

スーパーでそうめんを買って帰る自転車をこぎながら、いつも車に追突された時のことを考えてしまう。夜のアスファルトに投げ出される肩掛けカバンと自分のからだ、そして袋のなかで粉々になったそうめんたち。衝突後の自分ではなくて一瞬で食べられなくなったそうめんたちばかり眺めてしまう。

 

夜が静まったら、パラパラに折れてしまった白いそうめんたちを部屋の窓から風にのせてあげたくなる。空から散骨してもらう富豪のように、そうめんたちも砂の一粒や土のひとかけに紛れ込んで誰かの吸気に入るかもしれない。暗闇に白は映えるから、窓から放たれたらすぐに逃げなければいけない。

 

追突されることなく帰宅した自分は、毎日のようにそうめんを茹でている。そうめんとアイスは無理をしなくても食べられるから。本当はいつも無理していたいのにそうなれないから。ほどかれたそうめんの帯は誰かを起こすのに使われることなく、指先から離れて生ごみの袋へ落とされている。

A Rose For

夢を見ていた。夢というのは実現を目指すべきものではなくて現実の対岸にあるもの。それは例えば廃屋でゾンビを虐殺した後に短歌を詠んだり、知らない人とスカイダイビングをしたり、恋人との死別だったりする。現実のほうも偶には見るのだけれど、偶にしか見ないゆえにその法則がわからないでいる。

 

哲学的ゾンビという懐かしい概念が授業で出てきた。毎年、授業を受けている人の1/3程はこの概念が理解できないらしい。みんな中学生くらいまでには似たような事を考えて、でも哲学者がたいていのことは悩んでくれていることを知って安心したりしているのだと思っていた。それに僕はたいていの人が哲学的ゾンビとして見てしまっているし、自分も時々それになっている。

 

夢に出てくる知らない人と、夢の中ではうまく話せている気がする。起きたら顔はぼやけてしまうのだけれど、たいていの人は1度会っただけでは覚えられないからこれは自然なことだ。夢は面倒なことばかりだけど、この先その人達に会えるなら無理にでも生きてる意味があるのかもしれない。

 

今日も空は青かった。今の季節は薄めの青色。世界には2つしか色がなくって、それは僕の青とそれ以外の青なのだけど、最近の空は後者の色ばかりになる。だからカーテンをかけて部屋を守っている。カーテンも部屋も僕の色。部屋からアクセスしてみたマイナビってやつは初めて見る色でやっぱり怖かった。

 

 

白い雲

4月になった。知らないうちに肩書きが少し変わった。いつも通りに嘘をついた。働くようになった人々の投稿はみんな困惑を隠しているみたいだった。

 

映画館では2席隣の人が声を出して笑ったり独り言ちたりするものだから没入出来なかった。映画館のマナーとしては最悪なのだが、その人の笑い声は悪気なんてまるでなく楽しそうで、普段なるべく笑うように意識している自分がむしろ間違っているのだと思った。そんな風に笑えないのに、どんどんと思考の底が浅くなっている。書けないものばかりが増える。

 

考える必要のあるものをすべて後回しにしている。ギリギリになれば考えなくても選択しなければいけない、そうして思考がなくてもバレないようにしている。でも僕の薄っぺらさは親しい人ならみんなわかっていたことだろう。僕の笑顔の大半は誤魔化しだからね。

 

数日前はブログを書き始めて3年だった。1週間前は日記を書かなくなって1年だった。今日は引っ越してから5年目の始まりだった。僕も風景の一部だから、変わっていくしかない。

 

東京での最後の夜に、今日社会人になった友人2人とカラオケに行った。それは自分にとってのエンドロールだった。そのうち片方の友人は今日「悲しくてやりきれない」を歌っていた。僕が文面にしたすべてのものより雄弁なその歌を聴いて、自分以外の幸せを願うよ。

東京

東京の青空が好きだ。札幌の空は何にもないからっぽの空で、綺麗さで言えば札幌の方がきっと空気は澄んでいるのだけれど、自分はもやのかかったような東京の青が好きだ。それはフィルムカメラで撮った青、CDジャケットに描かれていた青、そして自分が育った都市の青。

 

東京は建物も木もてんでバラバラの高さに伸びていて、その凸凹に切り取られた空を見ていると空がちゃんと高いものだとわかる。手を伸ばしたくらいじゃ届かないものだとわかる。札幌は建物も木も平原も同じ高さのものが固まっているのだから、空の高さなんて分かりやしない。北海道で空の高さを知りたいなら、汗を流して山によじ登るしかない。

 

成田から飛び上がると、数時間前まで歩いていた東京は白い靄の向こう側だった。東京はこうして守られていることを確認した飛行機は靄の上まで高度を上げて、眩しすぎる青空で安定した。眠りについて、起きた頃には灰色の空の中、新千歳上空だった。

 

東京で見ることのできる星の多少なんてどうでもいいことだ。見えないものこそ素敵と教えてくれて、星より素敵なものが咲いている都市。東京への愛を込めて。

寒桜

東京では寒桜が咲いたらしい。そう書こうと思ってから数日が過ぎた。何ヶ月も雪が続くことを当たり前にした大学4年目の冬も、もう終盤のようだ。

 

これまでの冬は、雪が音を吸うことで訪れる静かさが苦痛だった。それによって際立つ除雪車の音も。手紙にもブログにもそればかり書いていた気もする。今年の冬は静かさが気にならなくなった。雪が降ってからは部屋でずっとヘッドホンをして映画とYouTubeばかり眺めていたから。眠れない夜も耳鳴りがしたから。本当は札幌にようやく馴染んだから、だと思いたい。ようやく自分の中で東京への執着が落ち着いた気がするから。

 

本当は何も怖くないのかもしれない。東京に帰ることも、研究室に行くことも、薄い友人関係も、ウイルスも、契約書も、金を得る手段のことも。ホラー映画はちゃんと怖いことを教えてくれる点で1番怖くないジャンルだから、そればかり観ていた。それを友人に伝えたら、それが悪夢の原因ではないかと言われた。薄い考察だった。

 

結局、自分がいかに淋しいかを書きたいだけなのだ。寒桜はこちらになく、雪の結晶だけが落ちている。

神話

僕の風呂場は、流れが悪い。バスタブから出ていくシャワーの水たちはすぐに遅くなり、すぐ隣にあるユニットバスのトイレ側の排水口から湧き出てくる。トイレ側も当然水浸しになる。パイプユニッシュを流し込んでも一向に水が出ていく速度は変わらず、かといってなにもしていないのに急に流れがよくなる日もある。どうやら僕の知らないところに原因がある。今はシャワー程度の水量だから溢れた水はユニットバス内に収まっているが、お湯につかろうとした日には扉の縁を乗り越えてキッチンや部屋を水浸しにする恐れがある。ただし、ここ一年間もしくは数年の間バスタブに湯を張っていない自分には杞憂というものだ。

 

僕のシャワーによってバスタブの外も水浸しになることが、僕の部屋での出来事のせいで窓の外も水浸しになることの暗喩であって欲しい。シャワーカーテンをあけて上からながめるバスタブの厚みは賃貸の外壁ほどであるし、トイレの床は積もった雪のようにゴミ混じりの白色だ。地平よりも高い位置に部屋はあるのだから、なにも不思議ではないだろう。風呂だって布団のある部屋の床面よりも高い位置にある。問題は、僕の部屋で世界を水浸しにしうるものがなにも生まれていないことだ。

 

人は日常を神話的に読めと言った。例えばいつかくる卒業は同様にいつかくる死の予習であると。そうして読み解いた時に、明日ある僕の卒研発表はどういった意味を与えられるのだろう。3月には4年ぶりの卒業がやって来て、雪解けにより外の世界は水浸しだ。

 

街は

冬になると街路樹なんかがイルミネーションとして光っているのが嫌だ。果たして、あれを本当に綺麗だとかロマンティックだとか思っている人がどれだけいるというのだろう。イルミネーションが綺麗だという刷り込みがなければ、気味が悪いのでは?

 

こんな文章を先月書いて放置していた。自分も恋人とイルミネーションを見にいった過去を棚に上げてなにを言っているのだ、と思うけれどもとりあえず付けておいたかのような気合のないイルミネーションを見ると毎年馬鹿らしい気分になるのも確かだ。あんな明かりよりも、ビルの合間を埋める空の薄白い雲のほうがよっぽどロマンティックだということに気づくほうがきっと素敵なことだ。

 

雪が積もると夜が明るくなって、新月に近い晴れた夜にはマグリットの絵のようになる。雪のない前提でつけられた街灯が多すぎて、部屋のカーテンを閉めても暗闇にはならないし、外から滑り込んだ明かりが天井に描く模様も見飽きてしまいつつある。

 

今日はどうやら特別の日であるらしく、親からも浮かれたLINEが来た。自分は変わらぬ日常を過ごしていて、それに慣れた自分Bは自分Aがはしゃぐことを許さなかった。ここ1年間で最長記録更新中である断酒の途中であるし、たいした食欲もなく、本屋に行ってみたものの何も買わなかった。年賀状を買いに行ったはずなのに忘れていた。あなたに素敵なことはありましたか?自分は明日も、今日のレプリカみたいな時間がくるよ。

 

鉄男

寝る前に、咳が出るようになった。少し咳き込むくらいだったのがヒューヒューと音がして息も苦しくなったので、何年も前にもらった喘息薬を使った。高一くらいに病院通いをやめてしまったから、それ以降ずっとこの薬を持っていたことになる。翌日の変な体調はきっとこの薬のせいだ。

 

咳をしている時は少しだけ気持ちいい。体内から不純物をすべて叩き出してくれる気もするし、肺の縮こまり方は冬の空気や煙草を吸った時の苦しさにも似ている。ただし、咳を我慢している間はたまらなく苦しい。無意味に寝付けない時にこれがくると最悪な気分になる。何もかもに腹立たしくなる、冷静になればたいしたことのない苦しみだということに対しても。

 

2ヶ月くらいろくに映画を観ていなかったのに、急に6日間で5本も観た。マイブームが来たのかと思って、ずいぶん長いことアマプラのリストにいれてある映画を流したらやっぱり気に食わなくなって途中でやめた。何本か試したが全部気に入らなかった。結局YouTubeでほとんど情報がないような釣り動画を眺めて過ごした。

 

眠くならないのと同時進行でどんどん起きれなくなっていて、ラボに行くのは14時過ぎになっている。留年生の先輩は遅く来る上にそんな時間に昼飯を食う自分を毎日不思議そうに眺めている。行ってもほとんどの時間は研究に関係のない本かスマホで時間を潰している。全然進まない実験は今日結果が出て、今週の作業が無駄だったことを教えてくれた。

 

1週間前に東京から届いたハガキには、まだ返事が書けていない。最近の嬉しかったことがそのハガキしかないにも関わらず。急がないと年賀状と被ってしまう。年賀状を喜んでくれる人はもうあまりいないのだけど、誰もいなくなるまでは書こうと思う。年賀状バイトの応募を出し忘れたことを思い出してまた気分が下がった。

いずれ灰になる

重い体を引き起こして開けたカーテンの向こうは、曇り空だった。その灰色は僕の布団カバーの灰色と同じ色で、布団と雲に挟まれた僕も灰色に飲み込まれて温泉地の泥みたいにぬかるんだ存在になったようだった。雲の見えない布団の外に抜け出して、立ちくらみのままにシャワーを浴びた。

 

先週くらいからすっかり冷え込んでいて、体も冬眠を求めているかのように重い。午前中に大学へ行かねばならない日が幾度かあり、その日は脳幹がすべて脱脂綿になったかのようだった。今週は睡眠の質が特に悪く、何時間も寝付けなかった次の日には夜中に目覚めて眠れなかった。何時間も眠れないと自分の連想力に情けなくなり、挙句安眠しているであろう友人への怒りすら湧いてくる。自分しか知らないことを、自分しか知らないまま抱えてかなければならないのに。

 

この時期の気温は、昼も夜も不安と同じくらいの寒さで散歩するにも静かでいい。昨日も誰かの誕生日で、僕も誰かの幸せを願った。その人の今後の幸せが、人生の不幸を圧倒する量でありますように。出来ればその幸せが美しいものでありますように。隣の部屋からは、今日も酒を注ぐ音が聴こえる。

 

青空

「生まれた所や皮膚や目の色でいったいこの僕の何がわかるというのだろう」と歌ってくれたバンドが好きだ。でもそんなことを言ったら、何を知れば僕のことがわかるというのだろう。このブログを全部読んでくれたって少しもわからないかもしれないし、そうならば僕の目の虹彩をじっとみつめてその色に名前をつけてくれた方が君のことを少しはわかる気がしてしまう。

 

ステージに立って演奏する以上の快感が、大学では見つかっていない。楽しいことはいくらでもあったけれども、瞬間的な快感ではまだ勝てていない。もうそれを越えられない可能性を受け入れて、それでも将来が楽しみになったら8割くらい大人になれるだろう。

 

ロックは幻想を肯定する音楽で、だからこそ常に正しい。絶対的に正しい、けれど正しさは僕の代わりに生きてはくれない。

穴があったら

大学では、生き物の勉強をしている。研究と言えるほどのことはしていなくて、精々お勉強レベルだ。かと言って、生き物が好きという訳ではなく生物学が面白かったからこっちに来てみたというだけだ。

 

ただ学科同期は生き物好きが多いので、水族館や動物園に行ったりすると楽しそうにしている。自分はあまりそれらに楽しめず、檻やアクリルや堀の向こうにいる生き物に自分が干渉出来ないこと、向こう側の生き物も僕に何も出来ないことに不満を覚えたりしている。だいたい、そういった場所には大声を出して走るガキが多すぎる。

 

小学生の時も動物園を楽しめていたのかわからない。無料配布の園内マップ上に各ケージに何が何個体いるか記し、自分のメモ帳に動物の解説をすべて写し取っていた。自分だけの図鑑を作ることで何か素晴らしいものが得られるという確信がきっとあった。

 

そういった盲信は、ずいぶんと減ってしまった。素晴らしい何かは僕の欠陥を埋めるものだったかもしれないが、今はいくつもの欠陥が穴になって体中に残っている。寝ようとしているとそうした穴に風が通る気がする。穴の内壁をワラジムシ状のものが這っている気がする。その穴を埋めなければ眠れないような気がしているが、毎晩その穴は諦めが塞いでしまって結局なにも変えられないまま次のチャプターに移っている。目覚めると体中に散らばっていた穴がひとつの大穴になって居座っていて、そこに綺麗な諦めが満ちるまで布団でじっとしなければならない。急に起きては貧血で苦しむ。

 

酒をやめれれば、その欠陥のいくつかは塞がると信じている部分がある。塞がらないと怖いから、酒を止められないでいる。酒を辞めてもきっと変わることなんてないし、思うより自分は欠陥品でないようだけれど。

箱男

最近、寝つきがいい。眠りもあまり浅くない。会いたい人がみんな出てくる、程よい夢を毎日みる。今は自宅の布団で目を閉じた瞬間が一番幸せかもしれない。

 

平日は毎日研究室に行く。必ずやらなければいけないことは一つもなくて、放任されている。研究テーマも漠然としていて、いまいち目的意識が生まれない。フィールドに行く気分でない時は論文を読んでいるがちっとも頭に入らないし、院試の勉強も同様だ。精神がノイズだらけになってしまって、大学内をあてもなく散歩する。池のほとりでぼんやりと昼飯をかじっている。

 

2週間ほど、Twitterをなるべく見ないようにしている。Twitterで流れてくる情報を眺めるのがどうも苦痛になってしまったから、自分が雑音に埋もれていく感覚があるから、暗いことしか書くことがないから、などが理由なのだけどそれはどうでもいいだろう。少し心配してくれた友人がいるらしく、それはありがたいと思う。

 

自分の内側を眺めまわしてつついてみたりすることには随分時間を使ってきたけれど、そうしていると自分には開けられない感情の箱が次々見つかったりする。開けてくれる人が見当たらないことに今更驚いてみたりもする。かつて開けてもらった扉の残骸を写真が教えてくれたりもする。

 

自分というもの、つまりなにかの事象に反応して内面を変化させるという自分の世界に興味はあるのだけど、自分がどんな生活をしてなにを成したいかという将来にはちっとも興味が湧かない。生きててよかった日が消えてしまうほど生きてなきゃよかった日々が続いていて、そんなことは関係なく外界は曖昧な質問の明確な判断を求めてくる。何かに対する感情というものは、気づいたころには消えてしまっていた。

 

心の海ばかり眺めていたい。砂浜に腰かけて、強くない日差しの下で、頭から出ていかない雑音が空に流れて消えていくのを待っていたい。水平線が波打とうが、魚が跳ねようがどうでもいいことだ。海に入るのは気が向いた時だけにしたい。でも今は座っている位置まで水位が上がってしまって、高波も出てきて、仕方なく逃げないといけない。僕の砂浜は強風で、雨粒と波飛沫も見分けられない。

 

現実では、ぼろい居酒屋のある区画が更地になって背後のビルが差さっている様子が見える。高架下の中央分離帯では酒を片手に立ち尽くす人がいた。先週は40匹のハエを殺した。向かいの土地では8時から工事を始める。今日半年ぶりに大きなニキビができた。僕は知らない現実のこと。頭で考えた文章は手元で改変されてしまってなにも伝えられなかったりする。

 

さとり

先週土曜、山に登った。日高山脈にあるマイナーな山で、まずガイドブックやサイトには載っていない知名度だが、たまたま読んだ記事の急登具合や北海道には珍しい信仰の山というので行ってみたのだった。名前を剣山という。

 

夜の0時に友人を回収し、徹夜でレンタカーを飛ばした。最後の峠で空の端が赤くなり始め、登山口の神社に着いた頃日が出てきた。その日の登山客では一番乗りで歩き始めた。先頭の自分の腕には1歩ごとに蜘蛛の糸がまとわりついていった。

 

早朝なので程よい気温で、控えめな蝉と鶯の鳴き声が心地よかった。噂通りの急登ばかりだったが、北海道では少ない梯子場などもあり大変に機嫌が良かった。山頂は最後の梯子を登りきった所で、数人しか立つ場所のない岩場のてっぺんに剣が突き刺さっていた。快晴で十勝平野日高山脈も見えない所はなかった。

 

狭い足場の中でなんとか安定して座れる場所を見つけて息をついた。強風の予報だったがそよ風程度で、日は温かった。目の前にはプラスチックのような雲が3つ浮かんでいた。このままなら体が溶けていくように眠れる予感がして、ダレン・シャンの死に際みたいな、酷く穏やかな気持ちに包まれた。

 

急に、下山後のことを思い出した。忌まわしい煩悩のこと。それから切り離された現在地。昨日飲んだコーヒーのカフェインが切れたのかもしれなかった。もし悟りを開けたとして、悟らず俗世で生きるのと悟ったまま俗世で生きるのとはどちらがつらいのだろうか。

 

山頂には一時間弱もいた。降りる途中で風も日差しも強くなってきて、到底山頂には立てない程の登山客とすれ違った。白樺の若葉が風で擦り合わされて、大雨のような音を滴らせている林床を下った。二点振り子である腕を振り回し、僕は平地へ消えていった。それからずっと体が重い。きっともう、あの場所には戻らないだろう。

6月

6月になった。薄紫色の季節、その印象は共感覚によるものではなくて、きっとカレンダーなどに6月のモチーフとして紫陽花が多用されていたことによる刷り込みのはず。6月はその淡い印象が好きだ。紫陽花のような紫は、非常に日本的な色という印象がある。

 

梅雨時は頭痛のする日が多くて、高一のときはクラスメイトによく頭痛薬を分けてもらっていた。喘息の薬と飲み合わせが悪いみたいだったけど、その友人とはいまだに仲が良好なので全く問題ない。体調がすぐれない日が多かったのに、あまり6月が嫌いでないのは誕生月だからなのだろうか。

 

雨の多い季節なのに水無月というのはなぜなのだろうと思ったら、どうやら無は連体助詞で「水の月」という意味らしい。なんと紛らわしい、神無月もどうやら同じ用法のようだが、wikipedia調べなので信じるかはあなた次第だ。どうでもいいが、水無月という和菓子の名前は初めて知った。スーパーにありそうな見た目だが、食べたことがあっても覚えていないだろう。

 

雨といえば、先日みた坂本龍一のドキュメンタリーで、教授がバケツをかぶって打ち付ける雨の音をベランダで聴くシーンがあった。それは自然界の音を探すためにやっていたのだが、バケツをかぶってたたずむ姿が印象的で、もしポートレートなどを撮る機会があったら同じ格好をさせてみたいと思った。モデルをさせる人がいないので、きっと実現しない。

 

札幌はここ数日暑くて、しばらく雨が降っていない。こっちに越してきて4年目なのでもうすぐ雨が続いて急に冷え込むであろうことも、それで体調が不安定になることも、北海道に梅雨がないのは嘘であることも、全部お見通しだ。今年は初めて梅酒を仕込めた。いつ飲み頃になるのかは、残念ながら見通せない。

炭酸の夢

久しぶり、といっても一か月ぶりくらいに高校の友人とzoomを繋いだら、アル中ではないかと心配された。昨日会った大学の友人には「ワインをラッパ飲みしてる時以外で元気な時あるの?」と冗談交じりにからかわれる。心配されるほど飲酒量はないし、人の見ないところでは割と元気だったりするのだけど。

 

ずっと部屋にいてだらだらしていると、一日の中に区切りみたいなものがなくなってしまうから、それを作るためにほぼ毎日ビールかチューハイを飲んでいた期間がある。ただ一人でビールを2,3缶飲んでもちっとも楽しくないし、財布は痩せるし、腹回りは太った。昨日も友人宅で体重計に乗せられて最悪な気分だった。体の無駄な部分は全部取っ払ってしまいたい。そう思いつつ最近はビールがコーラに変わっただけなのだが。

 

酒を飲むと夢が長くなる。昨日も素敵な夢を3つ見て、1つはもう忘れてしまった。誰かに教えてあげるつもりもないから、きっと残りの夢もじきに忘れる。忘れる前にまた思い出してあげたいとは思う。目が覚めているあいだも頭の隅で夢を流し続けていて、それは自分の変えたくないが情けないポイントだと認識している。

 

心が折れてしまったら前の人格には戻れないのだと伝聞できいた。心が折れたと自覚があったのは京大入試の英語の試験中と彼女に振られて数日後で、友人からはあまり変わらない類の人間だと思われているけれど自分では随分変わってしまったと評価している。(3月末の記事から彼女と表記している人は正確には元彼女なのだけど、どうしてもその表記がしっくりこないから許してほしい)

 

インターネットアイドルになったつもりで、なにもない空間に、ごめんね、なんてつぶやいてみたりする。世間では緊急事態宣言が解除されたようで、何度目かの使徒が襲来するまでの日常がまた連続する。