研究

外から、ドン、ドンと音がする。はじめは雷かと思った。それか大砲の音かと。しかし、にしては頻度が高いし、祭りの季節でもない。布団を叩くには、叩きすぎだ。遠くの部屋で壁でも叩いているのだろう、なぜ窓のほうから聞こえるかは分からないが、そう思うことにした。自分の幻聴だとしても何も変わらないのだ。乾咳をしながら、部屋の布団に座っている。

 

大学では、ヘッドホンをしている。共同の学生室に響く他ラボの無駄話、教授の独り言、廊下の足音、恒温機の唸る音、すべてまだるい。精一杯の拒絶に手を伸ばす。自分を些末なストレスから守るために音楽を聴いていて、音楽に申し訳ないと思っている。耳もそれに付き合わされているから疲れてしまって、夜は音楽のない贅沢という幻覚が現れたりする。

 

実験室は電波が悪い。Spotifyで音楽を流していても、しばらくすると止まってしまう。SNSの通知は来るけれど、こちらから送信することは出来ない。不完全な拒絶。この中途半端さが社会への未練となって、自分を引っ掻いてくる。緩慢に手を動かし続ける、やりたくてやったことなんてその部屋では1度もない。

 

読んでいた文庫の終盤になってから、最後の頁に小さな栞が挟まっていたことに気付いた。そうやって見逃して、まだ気づいていない栞が、生活にはわんさかあるのだろう。気づいていないものの中には栞程度ではないものも多いのだろう。そうした予感が、暗くて近い未来と重なって、どんどんと濃くなっている。濃くなった色は不幸というのかもしれない。

メダカ

祖母の家の玄関に、水槽が出来ていた。ペットはボケ防止に良いだろうと従兄弟が持ってきたらしいが、祖母は全く興味がないようだった。それならもっと張り合いのあるペットにすべきだろうと思う。だが、祖母は僕同様に鳥や猫などは嫌いなようだった。

 

帰り際に水槽を覗いたらメダカが1匹浮いていた。それを取り出して、庭に捨ててから帰った。埋めたりなどはしなかった。メダカを持つと、小学生の時を思い出す。

 

何年生の時だったか忘れたが、飼育係をしていた。教室の後ろにある水槽の管理が役目の係だ。メダカが大量にいたが、毎日ポコポコと死んだ。死んでいることに気付いた生徒が、水槽の隣にあるビニール袋に死体を放り込むのが暗黙の了解になっていた。死体を放置すると水が悪くなるからだ。

 

ただ放り込んでいくだけだから、すぐに悪臭がした。その袋をどうにかするのは飼育係の仕事のように思われた。しかし、死体を他のゴミと同じようにゴミ箱に突っ込むことには抵抗があった。だから死体が随分溜まった頃に、僕はその袋を持ち帰った。そして通学路にある団地の敷地に埋めた。木の影に、袋ごと埋めた。袋がなくなったことに、他の生徒は気に留めていなかったように記憶している。

 

この先、メダカを見る度にその事をきっと思い出す。そういったものが生活に点在している。例えば、映画の半券を見る度に容疑者Xの献身を思い出す。僕は半券をしばらく取っておく人間だから、きっと容疑者になったら疑われるだろう。そんなことで疑われるなんて、それまでちっとも知らなかった。きっと自分の部屋には自分の知らない疑わしいものがもっとあるだろう。

 

あるものを見れば僕を思い出せるよう、人に会うたびに伏線を埋めている。でも、あなたに埋めたものを、実は自分も把握していない。

妄想でバンドをやる

 

高校の時は自分のバンドが欲しかった。部活ではメンバーが流動的に変わるシステムだったから、共同体としてはやや弱かった。だから、このメンバーなら最強だというバンドメンバーが欲しかった。音楽による全能感を最大にしてみたかった。

 

結局、バンドは組めなかった。誘われて入ったバンドは良かったけれど、自分が1番やりたい形ではなかった。だからバンドのメンバーやそこでやりたかったことはすべて妄想で終わった。

 

バンドを組めなかった原因の一番は、バンドとして理想のメンバーを決められなかったことだった。組みたい人は何人もいたけれど、各パートを合わせて見た時にピッタリとはまる組み合わせが思いつけなかった。それはまるで理想をすべて入れ込んだ結果、完成品が不格好になってしまった図工の作品のようだった。毎晩考えても納得出来なかった。そんな時によく考えた、自分がいなければいいのに、と。

 

自分のやかましいギターがなければ、自分が人並みに歌うことが出来たら、自分がドラムを叩ければ、自分が、自分がいることで全体が歪んでしまったパズルに気づいていた。でも自分がやりたいことに自分が存在しないことを、当時は許容できなかった。

 

そんなことを、高校同期が組んだバンドを観て思い出した。1曲目のギターを聴いた時にわかった、こういうバンドがやりたかったことに。自分のいないバンドはちゃんと素敵だった。目の前の巨大なスピーカーに抱きつきたいくらいだった。きっとこの時間を思い出すことで伸びる寿命があるだろう。

 

最後の曲は、高校の時に同期がやっていた曲だった。でも同じ曲なのに印象が全然違っていた。月日を重ねた、現在の音がした。だからそのバンドの後も感傷だけではなくて、現在を楽しむことができた。それがとても嬉しかった。

 

大学でも本当は音楽をやりたかった。でもやらなかった。高校で先輩の演奏を観た時は「これだ」と思ったけれど、大学ではどこのサークルを観に行っても「ここではないな」という感想しか出てこなかったからだ。だから六畳の部屋でアンプもなしにギターを振り回して、時々頭を壁にぶつけていた。人前では何もしなかった。そういう日々を、あの演奏で友人に肯定してもらえた気に勝手になった。あの演奏で感じた月日は、きっと自分にもあるのだと思えた。

 

自分の自意識が、ようやく柔らかく、まとまってきたように思う。同時にその自意識を、ステージで開示したいという欲求も湧く。だから僕の妄想の中で、僕は妄想のバンドで次のライブの練習をしている。MCだって考えている。だから妄想が実現した時は、あなたも妄想の一員になって欲しいと思う。

ピンクの象

*この文章はいつもよりフィクションです。

 

「ピンクの象って知ってますか?」これが高校の後輩などから発せられていれば学園もののアニメ第一話のようであるが、目の前に座っているのはカウンセラーのおばさまである。大学のメインストリートは新緑に包まれており、初夏の日差しに照らされて人々が行き交うのが見える2階の部屋に我々はいた。数少ない素敵な陽気の日に、なぜアクリル板を挟んでおばさまと2人きり、個室で向き合っているかといえば、先月の自分が発狂しかけてカウンセリングに駆け込んだことが原因である。カウンセリングは毒にも薬にもならなかったが、やめる理由も特別見当たらず、こうして人生の浪費に貢献していただくようになったわけだ。今日はここ一ヶ月の中では比較的気分がよいのだが、礼儀として私も深刻な表情をつくり、前回と変わらぬような相談を投げかけていた。実際、研究室にいるよりも居場所のように感ずる瞬間もある。

 

会話のテンポが悪くなり、おばさまが怪訝な顔になっていくのに気づく。「単語だけなら聞いたことあるような気もしますが、わからないです」プラスチックバットでやる野球くらい適当な返答だったが、おばさまは我が意を得たりというように頷いた。「そうね、これはマインドフルネスの方法なのだけど………」そういえばマインドフルネスの話をしていたのだった。その概念をビジネス本などのしゃらくさい本でしか知らなかったので、その話題になってから発話が適当になっていた。おばさまの話を要約すれば、マインドフルネスとはひたすら呼吸にのみ意識を向けることで無駄な不安が排除され、”今”と向き合えるようになるとのことであった。つまり話を聞く限りでは、瞑想の方法論を雑に抜き出して名前を横文字にした、まったく興味を持てない話であった。

 

「今から30秒、ピンクの象のことを全く考えないで、と言われても難しいでしょう?たいていの人には難しいのよ。でも呼吸にひたすら意識を向けて、なにも考えないってことに集中すれば、ピンクの象も頭から消せるの。これが出来れば、考えなくてもいい不安に襲われた時にやることで無駄な悩みは減ると思わない?興味はなくとも、まあ試しにやってもいいかって気になった?」ここまで勧められて断るメリットは何も無い。襲い来る不安を無駄、と考えたことなどないのだが、ピンク畜生を消せるならやってみてもよいだろう。さっきから5cmくらいの、ファンシーな消しゴムのような象が2匹、おでこのあたりを漂っていて、まったく気が引き締まらないのだ。

 

「じゃあやってみましょうか。口から吸って鼻から吐いて……空気の流れに集中して……ではスタート」目の開閉は問わないらしいが、視覚があると雰囲気が出ないので目を閉じる。マインド、という単語のつく行為ではまず目を閉じると雰囲気が出てきてよい。薄く開いた口から空気が肺へ向かうのが、舌の感覚でわかる。感覚は肺の入口あたりで消えるので、空気が肺のどのあたりまで進軍出来ているかはわからない。そして空気達を早々に鼻から退出させる。鼻の穴は意識してみるとずいぶん長く感じる。出ていった空気を追いかけて、じわじわ鼻が伸びている感覚に陥る。絶滅した象の先祖は、このくらいの、まったく中途半端な長さの間抜けな鼻だった。私の感覚では、その長さまでしか空気を感じとれない。現在の象はマインドフルネスにさぞ集中しやすいだろう。ただ気になるのは、鼻にピーナッツが詰まってしまうことがないのだろうか。あの長さだと、何か詰まってしまったらたいへんに不快だろう。

 

目を瞑っても瞼にチラついていたピンク色がみるみる拡張して、リアルの質感を伴ってきた。近くで見るとおでこに生えた毛は白色だし、鼻の根元付近はシミのように色が薄くなっている。そういえば花子が死んだのはいつだっただろう。井の頭公園のアイドルだった花子、侵入者を殺した花子、他の象よりも顔のシワが多いように見えた花子。でも花子はピンク色ではなかった。このピンクの象は名前が必要だろうか。でもピンクの象がこの個体しかいないなら識別するための名前は必要ないのではな

 

 

「ハイ、おしまい。どうでしたか?」「さっきまでよりは、ピンクの象のことを考えなかった気がします」「そう、それはよかった」

 

24/7

朝から頭痛がする。毎年、6月は体調が悪い。今日の頭痛は気圧のせいなのか、疲れやストレスのせいなのか、東京と札幌の気温差のせいなのかは分からないけれど、頭痛だと何か書きたくなる。拳を痛む箇所につけると、痛みが色々と話してくれる気がする。

 

久しぶりに自室に帰ってみると、本が多すぎるんじゃないかと思う。本棚に収まらない本の山が、ここ数ヶ月で成長しすぎている。ストレスまみれだった証拠である。ただ、好きなものが山積みというのはいいものだ。寝るための居場所しかない実家から帰ると、特にそう思う。

 

映画を観ていたら、Jマスキスが「ツアーで色々なところに行ったが、旅行は好きじゃない」と言っていた。自分は旅行が好きだ。どの場所も素敵で、でも自分の居場所ではないことがわかるから。「ここではないどこか」の可能性を潰すこと。居場所は自分で作るしかないのだとわかる。

 

誕生日が来て、歳が素数でなくなってしまった。割り切れない思いも、いい加減綺麗に割り切るべきだろう。

rhyme

サクレライムが好きだ。さっきまで冷凍庫に4つ入っていて、今はもう3つしかない。サクレレモンが夏のはしゃいでいる時の味だとしたら、サクレライムは新緑の風の中に気だるい温度を感じた時のような夏の予感が詰まった味がして、嬉しい。

 

初夏の嬉しさなんてないような部屋で食べていた。部屋干しの臭いと湿気に満ちた自室、横には読めていない本の山。疲れの抜けない目。夏の湿気みたいな不安で、スマホを握る手がすべる。

 

余計な不安を無くすために、マインドフルネスを教わった。呼吸に集中すれば、「今」に意識が向くらしい。呼吸を意識しているだけでは生活できないせいで不安になっているのに。時間は死ぬまで連続する予定なのに。

 

キャンドルを見ていると落ち着く、と友人が言った。自分も買って眺めてみた。一番小さいものを買ったのに、僕よりも明るかった。様々なものをキャンドルにしたくなって、でも火では死にたくなくて、キャンドルはやめにした。

 

不安だったら、夜読書の合間にアイスなんて口にしている場合ではないのかもしれない。じゃあ何をしていれば不安なのだろう。安心は遠くにあっておもうものかもしれない、夏と反発して逃げていく。

珈琲

久しぶりにコーヒーを飲んだ。それまでは週3、4回は飲んでいたのだが、先週と先々週は精神的に参ってしまっていて全く飲む気が湧かなかった。誰かが淹れてくれたって、口をつけなかったかもしれない。

 

課題などを書かねばいけない時、つまり集中せねばならない時によくコーヒーを飲む。飲まないと思考が霞がかっていて、なにを考えても同じ景色しか見えないからだ。淹れる過程で、逃避への諦めもつく。十分に冷ましてから、「やれやれ」と念じつつ飲む。

 

コーヒーを不健康だと捉えてしまうのは、コーヒーが元気をもたらすからだ。それは元気でいなければいけない社会を想起させる。元気でいる間はただ気分が少し上がる飲料だが、そうでない時は社会参画の象徴のように感じられる。

 

実家にいた頃は、毎朝コーヒーだった。あの時は元気で、人生を早急に楽しみ切って死ぬことしか考えていなかった。今は朝食が不要な時間にしか布団から出ない。

信仰

ようやく桜が咲いた。毎年、桜を見ると湧いてくる感情が今年はなかった。それが桜とは理解していても、すぐには認識出来なかった。

 

毎日こころに負荷をかけられている。それをどうすることもできず、何時間も布団でじっとする。やるべきことはできないし、趣味などの必要な無駄もできないし、眠りにも入れない。もう6年もこの布団でこの壁を見ている。

 

カウンセリングに2度行った。知らない人が僕の話を聞きたがる。知らない人に話をする。それ以上のことはまだ見いだせていない。話すだけで何かが変わればいいのに。

 

カウンセラーが「辛いことには終わりがある」「諦めない人が最後に結果を掴める」と言う。これは信仰だなと思いながら聞く。信じなくてもいいが、信じた方が生きやすい。理解はできるので赤べこのように顎を動かす。

 

ぼんやりしていると時間がわからなくなるから、無意味にスマホを眺めている。眺めていれば時間が知れる。誰も自分に興味がないことを実感する。Twitterではなにか言いたい気もするが、それを表す言葉がない。具体的に状況を並べたってなにもわかりはしない。「話している時、ずっと下向いてるね」と指摘される。上を向くための理由がなかったからだ。

祈り

最近は夢の中でも寝ることが多い。だから夢が何日も続いたりする。目覚めたつもりなのに夢が入れ子状になっていることもある。今日は長い夢をみたから、忘れないように手にメモしておいたら夢だった、目覚めた僕の手にはメモなんて残らなかった。

 

出そうと思っていたESはあらかた出してしまった。あとは落ちる一方だ。今日も一社書類で落ちた。まだ連絡を待っているところも、1つとして内定が出るとは思えない。かといって、今更いい会社を探す方法もわからない。

 

そもそも、自分の良さや希望などを主張し続けるだけで疲労が溜まる。「あなたらしさ」を求めるのなら、僕の良さはきっとこの質問では分からないと思う。自分よりも優秀な人がそんな大量にいるとは思えない。ただ、社会に向いている素直な人は大量にいるのだろう。

 

息が苦しかったから、北へ向かった。内陸のほうはまだ雪があまり溶けていなかった。次の日には岩盤浴に初めて行った。サウナにも入った。サウナはつくづく、運動が出来なくなった人のためのものだと思った。暖かくなってきたから、そろそろ汗をかく運動がしたい。腹が重く浮腫んでいて、要らないものをすべてすぐに捨てられればいいのに。

疑問

一人暮らしを丸5年やってもわからないこと

 

・手紙の適切な頻度と熱量

・パスタを茹でる時の適量

・自分は何者なのか、という問の想定されうる解

・スっと眠りにつく方法

・チョコミントが苦手なのに年1回は買ってしまう理由

・部屋のベストな状態

・夜の寂しさ

・換気扇掃除のやり方

・朝起きるに足りる理由

・酒の適量

・世間、という概念の共通理解

・乗り物酔いの止め方

・遊んでいる時に突然一人になりたくなる衝動

・大人への成り方

車窓

タスクをすべて休止して1週間、電車で旅をしてきた。旅といっても移動距離が長くてほとんどの時間が電車の中だった。寝てばかりいた。車窓は常に雪原だった。線路はガタガタで、シカのため頻繁に減速した。

 

噴火湾には満月に近い、白い月が浮かんでいた。海は墨のような青色で、茶色混じりの白波が紺色の空との境界を示していた。除雪が追いつかなかったせいで1時間以上列車が立ち往生した後の月は、暖房の効きすぎた車内と比べてあまりに涼しげだった。

 

旅の初日に、酒のことを忘憂とも呼ぶことを知った。旅の目的はまさに憂鬱を忘れることであったので、当然毎日酒があった。ストレスで研ぎすぎた刃をむりやりなまくらにしていくような作業だった。

 

大学の友人たちがどんどん体調を崩していく中で、駅員さんに切符を見せるタイプの改札の駅で降りるような日が自分には必要だった。廃止の決まった駅は雪に埋もれていた。帰ってきてからは部屋で本を眺めていた。そういった孤独が必要な人間なのだ。孤独ではESを書けないのだけれど。

 

 

冬の星空を見ている人を、その首の角度のままナナカマドの木の下まで連れていきたい。美しさは比べるものではないけれど、赤い実が夜空に浮かんでいるように見えるのも知って欲しいから。

 

お互い美しいと知っているものを確認しあうことは、きっと必要なことなのだろう。でも君が知らないであろうことと僕の知らないであろうことを交換する行為は、それをしようという意志を含めて、とても素敵なことだと思う。

 

震えるほど寒くはない素面の帰り道で、ヘッドホンの音量を2マス上げる。なにも創造できない脳みその空間を埋め尽くすように。自分の足音も聴こえないまま歩いていると、着ているコートの内側の身体いっぱいに寂しさを感じる。そんな寂しさが好きだから、そのまま止まらずに歩く。誰かと住むことになっても、寂しさは自分で守りたい。

 

胃の余裕を感知して、コンビニに寄ろうか迷う。酒も買おうか迷う。酒は僕のわかりやすい欠点の1つで、僕は欠点ばかりが好きだ。迷った末に、今日は欠けたまま眠ることにした。欠けた場所を埋めてしまうのはまだ先のこと。東京にだって星空があり、ただ1人の時にしか見えていない。

 

 

喫茶店にて

今年は秋が長かった。つまり、最初に紅葉を眺めてから初雪を浴びるまでの期間がずいぶん長かった。もうすぐ冬だ、という嫌な予感が長すぎてなんだかくたびれた。

 

先月は友人が来てくれて、一緒に旅行をした。空の広さにたいへん喜んでくれたようだった。自分が慣れてしまったものの価値を教えてもらえて、ずいぶん楽しかった。楽しいイベントが終わった直後はいつも体調も気分もガタ落ちしてしまうのだけど、その旅行の後は2週間ほど体がふわふわし続けていた。人生の伏線を回収しきった気分だった。

 

目覚めた時は風がなくて、雪が漂うように降っていた。こんな雪を見るといつも深海の底にいることを想像してしまう。深海にも魚サイズの公園があって、鉄棒や使えなくなったブランコや冷えきった滑り台なんかもあればいいのに。

 

暗い自室を抜け出して訪れた喫茶店は満席だった。昨日まで髪が守ってくれていた首筋を冬の息が撫でていった。伏線を埋める作業をしなければと思いつつ、1人でやる作業としては負担が重いかもしれない。

23才の

実家では全員が早起きで、それに従っていたら午前がずいぶん長かった。その長い午前中のほとんどを、僕の賃貸よりも広いリビングで、ベランダに向いたソファーに座って過ごした。そうやって揺れるTシャツやブナの枝なんかを眺めていると憂鬱や不安なんて世界に存在しないような穏やかな気分になれた。

 

東京最後の朝は、友人の車で海岸に行った。ほとんどの人がサーフィンか犬の散歩をしていて、どちらも僕はやったことのないものだった。砂浜に寝そべったら青空以外何もなくて、このまま僕だけが夢みたいにフェードアウトしてしまいたかった。

 

札幌に戻った次の晩には、車に乗って山へ向かっていた。山頂から見下ろす木々は赤く燃えていて、それはもう下りてくるなと警告しているみたいだった。景色はたまらなく良くて、でも写真にすると山や谷の立体感、視界いっぱいに広がる迫力がすべて失われてしまうから君に伝えたい気持ちは空回りした。10時間歩いて、ちゃんと登山口に戻った。

 

23才の夏休みは終わった。僕はまだ、友人からの写真や手紙と、音楽のせいで延命し続けている。砂浜で履いていたズボンのまま布団に乗ってしまって、寝る時にまた海を思い出す感触がする。

 

副生活

いつからか、煙草を吸う真似をするようになっていた。小学生の時にはもうしていたと思う。家族は吸わないし、当然自分も吸ったことなんてなかったけれど、なぜかそうすると落ち着いた。大きく深呼吸をすると逆に緊張してしまうから、リラックスしたい時にこっそりとやっていた。人差し指と中指を軽く閉じて、唇につけて、吐く。

 

二十歳になって、ようやく実物の煙草を買った。はじめは息を吸いながらじゃないと火がつかないなんて知らなかった。まずくて苦しいものだと思っていたのに、実際は吸う真似をしていた時に想像していた味とそっくりだった。あまりにもそっくりだった。

 

眠れない夜は(ほとんど毎晩だが)、こめかみに拳銃を向ける。架空の拳銃しかないのでもちろん真似だけだ。そんな夜はたいてい頭痛がして、ここを狙えというようにこめかみの下が痛む。そこに銃口を向けて、撃鉄を上げ下げする。そうしていると少し安らぐ。意識を消す助けになる。一生、銃が手に入らないことを願う。暴力的な映画の見過ぎだとも思う。

 

三日前の夢では、拳銃を握った僕は追ってくる猟銃から逃げていた。左腕に被弾して、生涯力こぶなんてできそうになかった。血を流しながら僕の後ろ姿は枯草の平原に消えていった。起きたらまだ夜で、腫れた左腕を抑えながら錠剤を飲んだ。